ノータイトル

祝い事が好きだ。それなのに、なんの記念日でも、節目でもないただの夜に、死のうとした。本気で死にたくなった。朝になって、「今日の仕事が終わったら死のう」と決めて、とっ散らかった部屋を出た。

通勤の電車ではSo-netの解約期間を調べ、アパートの管理会社の電話番号を検索していた。「今日仕事が終わったら死のう」と衝動的に言ったものの、約3年前住み始めた今の部屋は、辛くて苦しくて悲しくてみじめでほんとうにたのしい私の毎日をそのまま飲み込んでくれた安息の場所だったから、事故物件にはしたくなかった。いかに人に迷惑をかけないで死ぬかを考え、考え抜いて、それは無理だとわかって項垂れる頃に、降車駅についてしまった。生きるのも死ぬのも、面倒臭い。

 

退勤の打刻をしてから1時間、退職する人へのお別れの色紙作成に勤しんだ。

「私これから死ぬのに。死ぬ人にこんなの押し付けることないのに。」と心の中でぼやいて、その瞬間にパズルが完成するみたいに事実が頭の中で整理されて、気付いてしまった。

押し付けられるのが嫌だから、押しつけられる前に、いつも自分から買って出ること。お願いなんてされなくても、進んで引き受けて、背負って、手一杯で、頼ることが苦手で「誰もやりたくない空気」に耐えられないこと。「みんな損したくない」すごくわかるのに、すごくわかるから、じゃあ私やるよ。いいよいいよ、お互い様だよ、次はお願いね、なんて言って、その“次”が来た時には、当たり前のように約束は忘れられていて、言えなくて、前の経験を活かして少しだけ楽にやり遂げる。

そして、くだされる「そういうのが好きな人」という評価と「好きでやってるんでしょ」という目線に辟易しながら、なんにも変えてこなかった。いろんなものや、いろんな人を好きじゃないまま、それでもやると決めたからには、とか言って、やって、全然楽しくない時間に翻弄されてきた。

やってほしい人たちを喜ばせるために「やります」と言ったことは、周りにとって「私が心からしたいこと」で、その方が、みんな気持ちが良くて都合がいい。

私はいつも、一瞬の安寧のために、自分の労力や尊厳をドブに捨ててしまう。

 

断られるのが嫌だから誰も頼らないこと、嫌われるのが怖いから誰も本気で好きになりたくないこと、嘘をつかれるのが辛いから、気まずい話題は聞かないこと、先回りして察した気になってることも、全部、わかった。わかったとて、私は私をやめられない。こんなの嫌だった。私の人生こんなはずじゃなかったと、自信を持って言えもしなかった。それがみじめで、辛かった。

 

贈るその人へのお別れの言葉、お祝いの言葉が書き込まれたメッセージカードや、みんなの笑顔の写真を、不器用ながら懸命に色紙へ切り貼りしながら、死ぬつもりで家を出たのに、って、おかしくて笑った。色紙を完成させたら、ひとつでもなにかマシになるかなとか、感傷に浸りながら作業をしていたら、失礼な発想だけど「お疲れ様でした」「ありがとうございました」「お世話になりました」「寂しいです」「新天地でもお体に気をつけて」「また会いましょう」

これから死ぬ人へも併用できそうな言葉ばっかりだな、と思った。ありがちなおくる言葉は色とりどりでカルタみたいに並んでて、馬鹿みたいだった。並べた馬鹿は、私だけど。

 

 

なにが辛くて、誰が嫌で、なにひとつ説明できなくて、うまく言えないまま7月が終わってしまった。