はやくもっとちゃんと普通に

頭やお腹が痛くなったら、薬を飲んだり病院に行ったりするという常識が欠けている。

私の母は、自分の子どもが体調を崩すことを嫌ったので、私がどんなに頭が痛い、お腹が痛いと訴えても、熱が無ければ仮病とされたし、あまりしつこく言うと何故か怒られたので耐えるしかなかった。

そのため、小児喘息が落ち着いてからは、大人になるまでほとんど病院に行くことがなかった。

頭痛で緊急の場合はロキソニンを飲む事、正露丸でお腹の不調はなんとかなること、風邪でも病院に行くのは当たり前だということは、成人してから徐々に知っていった。正直、会社員をやっていなければ熱が出たり腹が痛いくらいでは今も病院には行かなかったと思う。市販の薬を飲むのは、未だに少し抵抗がある。

 

看護師の母は「そんなことで病院に行く必要はない」シングルマザーの母は「病院に連れて行く時間なんかない」母親失格の母は「嘘をつくな」と、隠せない本音や苛立ちをストレートに子どもにぶつけた。

 

熱が出たときは、やっぱり病院には連れて行かないけれど「食べて眠れば治る」と温かい食事を作って、果物を切って、私専用のスポーツドリンクを作ってくれた。

母は、母親失格だっただろうか。

私たち兄妹は「熱が出ると母は優しい」と自然と学習して、体温計で測定温度を上げる方法を試行錯誤の末編み出した。3人とも一度に熱を出す事は流石になかったものの、誰か1人が発熱すれば御の字だった。その間は比較的優しい母と落ち着いた家庭でいられると、学んでいた。サバイバル生活のような子ども時代だった。

母が末っ子の私を産んだ時の年齢に、徐々に近づいてきた。結婚や家庭なんて、到底見えぬ生活の渦に飲まれ続けている。ぐらぐらと揺れ続ける足元には、いつでも暗くて苦しい過去や記憶の断片が落ちてる。

よく、考える。まだ見ぬ自分の子どもへ、私の母と同じような仕打ちができるのか?いいや、できるわけがない。普通、そんなことできない。きっと、可愛くて可愛くて愛おしくて仕方がないはず。

母はきっと追い詰められていた、苦しめられていたと、理解しようとしてしまう。そうでなければおかしい。そうでなければ、苦しい。

健康になって、普通になって、ちゃんとして。それでももう、子ども時代の記憶を癒すことはできないし、戻ってこない。

なんで普通のことが普通にできないの?ヒステリックな母の叫び声が、いつからか、自分の声にすり替わっていく。そういう恐怖がいつまでも拭えない。

 

病院へ行く。怖い。行く。ちゃんと、普通に

良くなるために、気が狂う前に、普通になる、普通になって、その後はどうなるんだろう。母のようにはなりたくない。すごく、悲しい。

 

ノータイトル

祝い事が好きだ。それなのに、なんの記念日でも、節目でもないただの夜に、死のうとした。本気で死にたくなった。朝になって、「今日の仕事が終わったら死のう」と決めて、とっ散らかった部屋を出た。

通勤の電車ではSo-netの解約期間を調べ、アパートの管理会社の電話番号を検索していた。「今日仕事が終わったら死のう」と衝動的に言ったものの、約3年前住み始めた今の部屋は、辛くて苦しくて悲しくてみじめでほんとうにたのしい私の毎日をそのまま飲み込んでくれた安息の場所だったから、事故物件にはしたくなかった。いかに人に迷惑をかけないで死ぬかを考え、考え抜いて、それは無理だとわかって項垂れる頃に、降車駅についてしまった。生きるのも死ぬのも、面倒臭い。

 

退勤の打刻をしてから1時間、退職する人へのお別れの色紙作成に勤しんだ。

「私これから死ぬのに。死ぬ人にこんなの押し付けることないのに。」と心の中でぼやいて、その瞬間にパズルが完成するみたいに事実が頭の中で整理されて、気付いてしまった。

押し付けられるのが嫌だから、押しつけられる前に、いつも自分から買って出ること。お願いなんてされなくても、進んで引き受けて、背負って、手一杯で、頼ることが苦手で「誰もやりたくない空気」に耐えられないこと。「みんな損したくない」すごくわかるのに、すごくわかるから、じゃあ私やるよ。いいよいいよ、お互い様だよ、次はお願いね、なんて言って、その“次”が来た時には、当たり前のように約束は忘れられていて、言えなくて、前の経験を活かして少しだけ楽にやり遂げる。

そして、くだされる「そういうのが好きな人」という評価と「好きでやってるんでしょ」という目線に辟易しながら、なんにも変えてこなかった。いろんなものや、いろんな人を好きじゃないまま、それでもやると決めたからには、とか言って、やって、全然楽しくない時間に翻弄されてきた。

やってほしい人たちを喜ばせるために「やります」と言ったことは、周りにとって「私が心からしたいこと」で、その方が、みんな気持ちが良くて都合がいい。

私はいつも、一瞬の安寧のために、自分の労力や尊厳をドブに捨ててしまう。

 

断られるのが嫌だから誰も頼らないこと、嫌われるのが怖いから誰も本気で好きになりたくないこと、嘘をつかれるのが辛いから、気まずい話題は聞かないこと、先回りして察した気になってることも、全部、わかった。わかったとて、私は私をやめられない。こんなの嫌だった。私の人生こんなはずじゃなかったと、自信を持って言えもしなかった。それがみじめで、辛かった。

 

贈るその人へのお別れの言葉、お祝いの言葉が書き込まれたメッセージカードや、みんなの笑顔の写真を、不器用ながら懸命に色紙へ切り貼りしながら、死ぬつもりで家を出たのに、って、おかしくて笑った。色紙を完成させたら、ひとつでもなにかマシになるかなとか、感傷に浸りながら作業をしていたら、失礼な発想だけど「お疲れ様でした」「ありがとうございました」「お世話になりました」「寂しいです」「新天地でもお体に気をつけて」「また会いましょう」

これから死ぬ人へも併用できそうな言葉ばっかりだな、と思った。ありがちなおくる言葉は色とりどりでカルタみたいに並んでて、馬鹿みたいだった。並べた馬鹿は、私だけど。

 

 

なにが辛くて、誰が嫌で、なにひとつ説明できなくて、うまく言えないまま7月が終わってしまった。

love

雨がじゅくじゅくとうるさい季節がきた。梅雨も夏も嫌い。夏生まれで左利きなのに、夏が嫌いで天才じゃなくて主人公じゃないのは私だけ。低身長なのに太っていて巨乳で陰で奇形体型と呼ばれるのも私だけ。

子どもの頃から地獄先生ぬ〜べ〜になりたかった なれなかった 蟹座は少しスケベでイチャイチャするのが大好き、そして人情に溢れ正義感に燃えるタイプ、らしい  死んだ方がいい。鬼の手。

 

早めの誕生日プレゼントに、誕生石であるルビーのネックレスを貰った。小さい頃になにかの本で見た「ルビー」と「ジュライ」が初めて覚えた英単語だったのを思い出した。大人になった私に優しくする母親を「虐待の禊」だと穿った見方をしていつまでも許さない一方で、たくさん差し入れられた手料理のひとつの、クリームシチューの懐かしい味に涙が出そうになった。これが1番好きだった。すぐに平らげてしまったくせに、お礼の連絡1つできないでいる。喉元にせり上がる名称不明のなにか、これの名前がわかったら改めてお礼を言うことにした。

あなたに優しくされるたびに本当は好きになりたかった、好きなまま大人になりたかったと思わされて、心から嫌だ。とにかく私が憧れるすべてはあなたに壊されて諦めさせられたから、あなたを今更肯定すると私はどうなってしまうか、恐ろしくて考えたくない。愛されることとか、可愛がられることとか、自信を持つこととか全部、させて欲しかった。してみたかった。ださくて、口にできやしない。化け物は化け物のまま、どうかいつまでも怯えさせてくれ、可哀想な私がまだここにいてもいいように。

 

帰省して兄妹が揃うたび、お前は末っ子で女の子だから、1番甘やかして育てたんだと豪語する、その笑顔を苦々しく思いながら「1番殴られて過干渉を受けたのもを私だけど」と、脳内でだけ愚痴を溢す。まさか聞こえてないはずの兄達が、やれやれ、という表情をした、気がする。

もう、こんなことおおっぴらに言ってもられない年齢になった。

 

 

「夜の暗い海で迷う船を導く灯台の光のような 」「困ってる人に手を差し伸べて、優しくできる人になりますように」「導いていける人になりますように」という、とんでもなく使命に満ち溢れた、超偽善的な願いが込められた、あなたがつけた、私の名前だけは好き。28年生きて、自分一人でさえ、たびたび迷子になるっていうのに。

生涯名前負け。上等じゃん。

うっすらと抱え続ける希死念慮vs28歳人間

試合開始のゴングが、今、ここ、西東京のどうしようもない1DKにて鳴り響く。

 

絶対絶命

十九歳の頃、役者を目指して上京する為、昼間はフルタイムで今の仕事をしつつ(当時派遣社員だった。)、夜は地元のほんとどうしようもないスナックで週三、四働いて、くたくたになりながら身体をすり減らしてお金を稼いでいた。

そういえば、あの頃はなにをどうやってあんなに頑張れたんだろうかと、時々懐かしく、そして不思議に思う。

 

とくに夜の仕事は嫌で嫌で、とにかく客の男がきらいで、給料をちょろまかすママがきらいで、四十歳の口煩い先輩ホステスがきらいで、一緒に働き始めてなにかと比較されてしまうキャバクラ経験がある美人の友達もきらいになりかけて、良いことがひとつもなかった。

「客が好きな曲くらい、勉強しなさいよ」と先輩ホステスに言われ「うるせえババァ、私はロックかパンクしか、聴かねえ!」とか内心毒づきながら、友達が客とデュエットをして喜ばれているのを見て、急に自分が恥ずかしくなって、俯いてしまうようなどうしようもない性格。なんにもしたくないけど優しくされたいし、暖かく迎え入れられたい。一応求められていたい。正直、今もそう。

 

背が低く、メイクも下手くそで、高いヒールを履かず、露出の少ないドレスを着て席につく私に、初見のジジイが「なんだあ、子供じゃねえか。」とあからさまにがっかりした顔を見せ、遠くの席で盛り上がっている顔もスタイルもノリも良い友達のほうを、じっとり眺めて、女はあれくらいハキハキしてる方が良いんだよ、と目を細めて言った。「お前になにがわかる死に損ない」と思ってはいたけど、傷ついてた。

 

 

歩み寄りたくない、歩み寄られたい、受け入れないかもしれないけど。一方で、歩み寄らない自分を保ったり、貫きたいほどのポリシーはとくになかった。“はあーあ、顔可愛くないし、媚びなきゃだめか”とはっきり思った記憶がたしかにある。繰り返すが当時十九歳で、私はそれまでも、そこからも、自分を美しいと思える瞬間を持てず、あの頃から約10年過ごしてきてしまった。

 

「美人でないのだから」せめて歌を知ろう、と身も蓋もない悲しい動機を持ってTSUTAYAに走って、山口百恵工藤静香中森明菜松田聖子ピンクレディー、ドリカム、ユーミンなど、とりあえず歌っておけばおっさん〜おじいさんの客が知っていて喜ぶような「昔の曲」を漁って聴いた。デュエットはキモいので、デュエットできる曲はひとつも覚えなかった。

 

音程を掴むのが得意でなくて、歌が苦手だったが、昔の歌謡曲はシンプルでとても歌いやすかった。毎日発生練習をしていたから、声の通りだけは良くて、初めて歌を歌うことを苦に感じなかった。その中でも、私が歌うイルカのなごり雪は常連のジジイどもに大層気に入られ、歌い終わる頃に長い長い拍手が起きるほどになった。「子供じゃねえか」と言ってきたクソジジイにも聴かせたら「処女の声じゃねえか」と言ったので、蹴り殺した。

 

 

山口百恵が好きになったのはこの頃だ。

実家住みなのを良いことに、親の車で深夜の田舎道を好き勝手走った。

当時の相棒だったiPad Classic(中学生の時お年玉で買った。)を車に繋いで「青い果実」「禁じられた遊び」「ちっぽけな感傷」「イミテイション・ゴールド」「絶対絶命」「ロックンロール・ウィドウ」など繰り返しよく聴いたものだ。

「青い果実」→「ロックンロール・ウィドウ」なんかはとても極端に変化してるのでわかりやすいのだが、小娘がたくさんの恋をして徐々に大人の女性へ、それも一筋縄ではいかない、大変な女へ成長していくストーリーが山口百恵の楽曲全体を通して感じられて、山口百恵の活躍している当時ではなく、私がホステスをやっている当時に好きになれて良かった、今出会えたことに価値があると思わせてくれた。不思議なことに、どの曲の、どの恋にも、どの想いにも共感できるのだ。時代も違うし、歳も違うし、環境も違うのに。

 

「あなたが望めば何でも捨てる」「なぜ愛されちゃいけないの」「泣くのはどちらかひとりでいいわ」「その人の涙の深さに負けたの」「男はあなたひとりじゃない」

 

冒頭にいいことがひとつもなかったと書いたが、ひとつだけあって、やっぱり、山口百恵を好きになったことだ。そんな山口百恵がついサブスク解禁。是非聴いてください。

あと「ちっぽけな感傷」はスネオヘアーがカバーしていて、歌い方やアレンジを聴き比べるのも楽しい。是非。

 

 

私は夜の仕事を一年ほどで辞めて、夢いっぱいに上京して、友達は地元にも、店にも残った。彼女は私が辞めてからも時々、常連客のおかしなエピソードをLINEで教えてくれたけど、私が新しい生活にドタバタとしているうちに連絡もすっかりこなくなって、私も何となく自分からは連絡をせずに、3年後、店のママから「また働きませんか」と電話がきた。

その時にはもう、さっさと正社員として社会人をやっていて、まさか、絶対働きませんよと笑い飛ばした後「そういえば、あの子は元気ですか」とママに訊ねたら、

「何言ってるの、あなたが辞めたあとすぐ辞めたわよ。知らなかったの?」と聞き返されて、真っ白になった頭にぽやんと思い浮かんだのは、あの子が『今日は気合入れたの』と見せてくれたネイルが馬鹿みたいに赤くて、私もこの子も女で、もうすぐ大人になるんだ、と少し怖くなった夜のことだった。

たぎる日々

5/13

前回、ずいぶん口汚い日記を残してしまったのでどんな顔をしていいかわからず、それでも毎日確実にやってきて、あろうことか真っ白な手帳は、少しづつ塗り替えられていきます。私が手帳に着ける色はだいたいがオレンジ、ブルー、何か大切な事柄は明るくて濃いピンク色で、毎週水曜日には背景は緑色に黒字で「洗濯、掃除」というスケジュールが表示されますが、それが守られた事は一度もありません。自分で設定した気がするのですが、自分で設定したものを遂行する必要なんて別にありません。

むしろ、いつどうやってやるのか、とくに決めていないことを、さらっとやり遂げた瞬間に、とてつもない快感と開放感でたまらなくなってしまいます。脳内に響くリズムに合わせてステップを踏み、ダンスが終わる頃もう深夜3時で、常識が欠けた木造アパートの2階で、1人で。

約1年間ベランダに放置していたピンチハンガー3つを、燃えないゴミとして本日、廃棄致しました。ありがとうございます。ありがとうございました。土曜は青、日曜は赤、馬鹿みたいに色とりどりの毎日。

 

 

それはそうと、私はネイルをしません。今よりもっと若い、10代の頃とかは凝って、ネイルチップを買いあさったり、マニュキアを塗ってみたりしていましたが、いつのまにか不格好になった自分の手が嫌いになっていて、いつのまにか不健康になった爪に構うことをしなくなりました。

ある時期から、ストレスを溜めては異常な頻度で手を洗い、深爪をして、その癖はまだ治らなくて、今も自分の指先が嫌いで仕方ありません。ほとんど同じ理由で指輪もしません。

白くて細くて綺麗な指を見ると、その指に似合ったネイルや指輪を見ると、私の中のなにかが掻き立てられて、激しくうねって、やがてしぼんで小さくなります。自分がつまらない人間だと酷く落ち込みます。優しく大切にしなければならないものと、そうでないもの、その線引きの、あちら側に、いつでもその綺麗な手があるのです。そんな気がします。

 

 

お見せする予定はありませんが、初めて短い小説を書きました。誰の気持ちもわからないのに、知ろうともしてないのに、架空の人間には痛く共感して、信じられないことに仲間意識が芽生えます。自分の気持ちはうまく話せないのに、登場人物が何を言いたいのかがよくわかります。すみません、端的に言うと、人と関わる事にすこし疲れました。

 

 

 

実は、多少のこだわりがあります。

例えば、上の文章ならば、手帳アプリ上で自分で設定した色に関しては英語(オレンジ、ブルー、ピンク)、アプリのデフォルトのカラー設定のことは漢字表記(赤、青)。

事実であれば1人、孤独であればひとり。一人称はあまり変えたくないので「私」としてなるべく統一する様に。きっかけを「色」にしたので色にまつわる自分の話を書いてみたり。

文章も性格も、散文的だと言われてしまいますが、自分ではそうは思いません。

こういった他の誰も知らない、知らなくていい、誰も困らない、私だけが知っていればいいこだわりが、私が書く文章には沢山あって、実は文章だけじゃなくって、とりとめもない言葉や、癖だったり、喋り方だったり、きっと誰にもわからないけれど、私が私の為に自然とやっているすべて、はっきり言うと、私はこれらにとてつもなく癒されています。こんなことが許されていて、今こんな風でいられてうれしい。だから、目の前の環境や、周りの人も、心から愛せました。愛されていないと知るまでは、愛せると思います。

 

珍しく煮物をしてみたら、鍋底で煮えたぎる醤油の染みが、自分に似ていました。

目論みが失敗に終わっても、何度でも、ついてきてほしい、どうか消えないで欲しい、自信をなくさないで欲しい、すみません、今日は、いつもだけど、自分に向けて、自分の為だけに書いています。

 

「お前にわかるわけないからお前には言わない」私の身体はいつも、そういう血でたぎっています。

おやすみ

「なんでできないんだよ」「使えねえなあ」「チッ」「そんなこと知らねえよ」

 

今日は3人の客の顔と言われた嫌味を思い返しながら眠れるまで豆電球を眺める。

今日は、と書いたものの、最近はもっぱらこんな感じで、天職と思われた接客の仕事に心底うんざりしてしまった。新型肺炎の影響は店頭で働く私の生活に大きく関わり、遊びに行けない、友達と会えない、よりも、くその客と接する苦痛の方がはるかに大きい。6年目にして客のくそみたいに頭が悪い主張やわがままや理不尽な暴言に夜ひとりで泣いてしまう。命をかけて出勤し、生活インフラを止めない為の車載の歯車として耐えて、必死にかけ回り続けていても、ごみみたいな客は自分の思い通りにならないことをすべて店頭スタッフにぶつける。こんな有事にも到底信じられないほど頭が悪く、常識に欠ける人間で店内が溢れかえる。疲れてしまった。どうしてそんなに頭が悪いの。どうして、そんなに、頭がおかしいの。

このご時世に店頭に沸いてでる、いわゆる情報弱者は、一般常識にも欠けるパターンが多く、頭が悪い、無知、非常識のフルコンボ、そして何故かこれらの要素を兼ね揃えたフルコンボ客は異臭がすることが多い。あくまで個人の経験から算出した統計なのでこのデータの正確性は知らない。実はメインのフルコンボよりも、オプションで付いてくる「異臭」が1番、耐え難い。なんでもいいけど、なんでくせーんだよ。

 

でも、もう限界かもしれない、いままで何度も思ってきたけど、ここまで大きなダメージ(傷害というよりは疲弊)を感じることはなかった。

これまで愛想良く聞き流せた、客から延々と聞かされる主語や述語が抜けた冗長的で何が言いたいかわかりにくい一方的な語り(客によっては、こちらが相槌を挟む事によって対話の実績がリセットされるのか、最初から同じ話を繰り返し始める人間が一定数いる。あれはなんだ。病気か?ふざけるな。)を、最近は聞き流せなくなっていて、客と対面しながら気が付いたら拳を握っていたり、ボールペンを握り締めていたり、話をぶったぎって、余計な話をしないで、用件だけ言ってくださいと声を荒げたりしている。限界、限界なんだと思う。頭が悪い人間と、1秒たりとも長く接していたくない。

これは仕事、仕事であるが、どうして客の頭の悪さにまで付き合わなければいけないんだろう。どうしてこいつはこんなにもくそなんだろう。

「こんな人間に与えられた苦痛をそのままにしていいのか?」というような声が、脳内でこだまする。気がする。正直ぶっ殺してえなと思う。なんでこいつらはここまでこちらに不快な思いをさせて、油断しきってるんだ?なんで殺されないと思っているんだ?

《あー、接客業の人達、ごみでくそな客に危害を加えたという事件の実績を作って、私達で国を変えていきませんか?》と頭の中だけで全国の同業者たちに訴えかける。犯罪者にはなりたくない、犯罪者にはなりたくないが、なんで他人の自尊心を踏みにじるこいつらは野放しなんだ?自問自答して、眠って、朝になればまた私は出勤する。明日も、何事もないみたいに笑うだろうけど、どうかな、ぶっ殺してーと思わないでいられるかな。

 

店の外で、かすのごみの客が道に迷ったり、乗りたい電車やバスがわからなかったり、喫煙所でライターがなかったり、転んだり、親父狩りにあったり、痴漢の冤罪に巻き込まれたり、車に轢かれたり、とにかくどんな困った場面に私が遭遇しても、絶対に助けてやらない。そういう覚悟で来いよ。そのつもりでいろよ。人は鏡と聞くが、接客業においてはそれはない。到底信じられないほどの、ごみくずのくそどもを、明日も威嚇して心でぶん殴って寝て忘れるんだろう。

10年後20年後、笑えてるといいな。「大変な時代だった」と、笑えてるといいな。

4/26日記

理由もなく朝4時まで風呂に浸かった。半身浴のつもりが、湯量の設定を誤って浴槽一杯になったお湯の中に潜ってみて、直前にぼちゃんと放ったバブの苦みを初めて知った。

一緒に風呂に浸かって、浴室の扉を開け放して「これはもう露天だね」と笑っていたのは、いつ、誰とでしたっけ、もうそんなことも 忘れた。

こうすると、浴室の外の少し冷たい空気がじわじわと浸食してきて、露出した肌に触れてひやっとする。そうしたら湯に身体を沈めて、じん、ときもちよく温まる。あの瞬間が好き。

 

世間とか生活が変わって少し経って、皮肉なことに時間にゆとりができて、一人でいるには少し広い部屋と向き合い、少しづつ変わっていきたくなった。

手始めに、本棚の隙間に追いやって溜めに溜めた封書や手紙、ダイレクトメールなどを大変申し訳ないが、やっと開封していった。開封済みのものもまとめて一緒になっている。

 

内訳はこうだった。

開封済みのガスの請求書2枚、開封済みの水道代2枚、J-comマガジン2月号、J-comマガジン3月号、地域のお便り、その辺の謎の店の広告、「Tポイント会員様へ」1枚、市から届いたゴミカレンダー一冊、1月の健康診断の結果、昨年2月加入した保険の証券3枚。

 

(チラシや広告類は「一切お断り、見つけた場合には通報も辞さない」という物騒なシールを郵便受けに貼ってから、殆どなくなり、それまで2週間も放置すればパンパンだった郵便受けが、今度は逆に「何か入ってるとすれば、わりと重要」な箱に変わってしまった。くだらないものでパンパンだった時代は「どうせくだらないものしか入っていないのだから」を理由に、郵便受けを開けることから逃げていたが、こうもくだらないものが減ってしまうと、目を向けるのが余計怖くなってしまった。)

 

 

ガスや水道などの請求書は、すでに電子決済で支払済みであり、なぜか支払い後も用紙を捨てなかったらしい。公共料金の口座振替の手続きは、この2年で3度挑戦したが、「口座情報を返送してください」で送るのが面倒で1度挫折、奮起して再トライを試みたが「印鑑が違っています」で2度目の挫折、3度目はいつの間にか返送期限が終わっていて、完全に諦めた。

健康診断の結果は珍しくきちんと読んだが、どの項目も「A」とされていた。ほんとうか?かなり疑わしいが、記念にクリアファイルへ入れて保管することにした。保険証券は眺めてみたがつまらなかった。きっと大切なものなので専用のファイルを作って保管する。市報の一面には、新型肺炎による影響が淡々と事務的で味気ない言葉で掲載されていたが、こういうものは、これでいいのだ。

 

ゴミカレンダーは、思いもよらない収穫だった。

これまで、市が出しているアプリや、次の日出せるゴミの種類をメールで知らせてくれるサービスを利用してきたが、アプリやメールの確認自体を忘れる愚か者には、部屋に常に掲示しておけるのはありがたい。

紙でできたゴミカレンダー、どうしようもなくださいが、この際アナログにも頼ろうと思う。

 

あとは全部ゴミだ。個人情報が満載のそれらを無心でちぎって、ちぎりまくって、私の名前や住所がバラバラになっていって、怠惰な期間なんかなかったみたいにすっきりした気持ちで、今日から新しい自分なのだと、誇りそうにもなったが、目の前には紙屑の山ができていた。

これらは燃えるゴミ。指定の変な色の袋にまとめて、今夜、誰にも見られずにゴミに出す。

 

多分、生活や感情は、まだまだ変わっていく。実は何も変わらない。

すぐに忘れる。絶対忘れない。絶対忘れない。